チボー家のジャック

マルタン=デュ=ガール 山内義雄訳 チボー家のジャック

 現在、日本には少女が自分探しする本はたくさあれど、少年っていうのは見ない気がします。それはたぶん、少年が「愛」やら「ぬくもり」を求めている姿はあまりかっこのつくものではないからだと思うんです。だったら少年は自分探しのたびに出ないのかというとそうでもなく、例えばこのジャックの場合「社会」に対して目を向けることが自分探しと言えるはずです。現在の日本ではうけいれられないですね。
 ジャックはもともと文学的な妄想癖があったことと、チボー家の家長の抑圧的な態度、兄の権力顕示欲が総合的にジャックの基礎を作るに至ったと思います。だからこその「チボー家の人々」というタイトルです。そのジャックが登場する部分だけを抽出したチボー家のジャックにはジャックが経た時の重さや虚しさがいっさいなく、伝記をさらっている感覚です。しかし訳者の言うようにこの本は小学生高学年に読んでもらいたいと強く感じます。なぜならばこの本は「自分探し」がテーマであるからです。すでに成人しきった人間が読んでも読了後には郷愁しかなく、得るものは少ないでしょう。ノーベル賞受賞の鍵となった「一九一四年夏」はまさに第二次世界大戦の気配が限りなく目に見えない形で忍び寄ってきた時に書かれたものであり、インターナショナルという思想はマルタン=デュ=ガールが出した結論と同時に啓蒙とも言える。だからこそチボー家のジャックという本をこれから自己を形成していく人間に読んでもらいたいと思っていたに違いない。

 と真面目に本を読んだようだけれども、頭に浮かぶのは高野文子の「黄色い本」ばかり。実っちゃんの一年かけて読んだ本を私も読んでいるという倒錯した愛情がいっぱいです。事実、現在チボー家の人々を読みたいのですが出版されている本は黄色でないのでいやだと思っています。