文藝春秋 芥川賞発表三月特別号

綿矢りさ 蹴りたい背中

 恋愛とも友情ともつかない感情が主人公ハツとにな川の間に生まれるわけですが、ハツもその友人絹代もにな川も高校一年生なんです。高校一年生の一学期中間テスト前なんです。中学時代のグルーミングに苦痛を感じて高校生になってからはクールであろうとするのは別にかまわないのですがやはり恥ずかしさを感じずにはいられません。この一人称でありながら俯瞰視点が恥ずかしさの原因であり、グルーミングかっこ悪いって一人称で言いながら俯瞰視点で他人を冷静に分析するこのちぐはぐさ。それって結局一人称じゃん、なにその中途半端な俯瞰。そんなことされるとグルーミングでも別にいいじゃんかよっていうのを思い出しちゃうじゃん。しかも時代考証が私たちの高校生と合わせてあるから中途半端にアナログでそれでデジタル。これはファンタジーの領域だよね。
 狭い視野とも違う奇妙な高校生像を今から高校生になる、例えば私の妹なんかが読んじゃうと「大学受験?ハッ。っていうこのスタンス。」って言いそうだよね。
 私個人の意見としてはグルーミングしようがしまいがそれないりに楽しさを形成していることに変わりはないんだからさー、もっとグルーミングしないならしないの楽しさはどこいったんだろうねー。っていうスタンス。

月と六ペンス

サンセット=モーム 月と六ペンス

 モームの代表作「月と六ペンス」はゴーギャンの伝記に暗示を得た作品、と大抵の解説書に書いてある。そしてそこから連想される本当の天才の苦悩だとか通俗性の諸悪だとかそういうテーマであるんだろうなぁという暗黙の解説も含めた解説はとても正しい。正しいと言うのはこの本を読まない人間にあらすじと主観を一度に伝えている点で解説として正しく機能しているという意味だ。

 ということを踏まえて、この話はある作家がひたすら天才画家の後をおっているという点に誰も触れないのはどうしてなのか。文学と美術は同じ芸術という枠の中で言語化される芸術とそうでない芸術として対照的な位置にある。作中の画家は結果的に絵画に高額な価値がつくことになったが、それ以前からこの作家は画家を追い続けている。この作家が言う「天才」とはただ言語化されない芸術に対しての憧れと奇抜な行動が魅力的だったからではないだろうか?天才や特殊能力は他者と比較してその特殊性が浮き彫りになるが、ひたすら作家の点から画家の特殊性を書き出そうとしてもやはりそれは憧れの域を超えるものではないと思う。

香水 ある人殺しの物語

パトリック=ジュースキント 香水

 ずば抜けた嗅覚を持つ主人公が最終的に神の匂いを手に入れたという話。その神の匂いとは女の子の匂いであってちょっとがっかりしてしまう人は多いと思う。第二部のパリの香水屋での栄光は私たちに馴染み深い素晴らしい「香水」ととどまらない欲の話であるから、対比することで主人公の特殊能力やそれゆえの感情もわかりやすい。けれども山にこもる第三部や至高の香りを作り始めるとその特殊能力だけの世界になって逆に能力のすさまじさが伝わってこない。

 副題にある人殺しの物語とあるとおり、彼は神の匂いを作るために多くの女の子(たぶん処女だろうなぁ)を殺す。しかしそれ以前に彼に関係する人全てが事故や不遇の死が訪れているところに彼が殺しているのだということを感じる。彼の能力は人間の五感のひとつ、まさに人の命を吸い取って成立するような雰囲気がある。てっきりそういうことで人殺しなのだと思っていた。

 そして最後、匂いを全てまとって浮浪者に喰われて終わる。摂取するという行為と香りの関係に疑問が残る。

少女地獄

夢野久作 「少女地獄」「童貞」「けむりを吐かぬ煙突」「女坑主」の四作を収録

 ここを再開させた最大の理由はこの「少女地獄」について書きたかったからです。

 少女地獄という作品は「何でも無い」「殺人リレー」「火星の女」の三つの話をまとめての総称であって、姫草ユリ子が嘘をつくという「何でも無い」が少女地獄ではないんです。しかし姫草ユリ子のインパクトは他の二作に比べて格段にあるもんだから少女地獄=姫草ユリ子かと思っちゃうんですよね。

 そんなインパクトある作品なんだからこれだけで少女地獄でいいじゃんと思っていたんですが、読み返してみてこれは違うと思いました。結局なにが少女地獄かっていうと、少女はすぐ死ぬことができるくらいの地獄を体の中に抱えているってことだと思います。妄想癖の暴走で自殺した姫草ユリ子、この人になら殺されてもいいと思う友成トミ子、とんだ自業自得の復讐をした甘川歌枝とこの三人は自業自得だとか思い込みだとかで自殺する。そこまで駆り立てたのはまさに少女そのものだったからではないかと思います。